やがて、美濃紙は江戸幕府御用となり、障子紙を納めることとなり、「御紙漉屋」は諸役御免で、幕府の手厚い保護の様子がうかがえます。
明治になり、政府は明治6年(1873年)のウィーン万博と同9年(1876年)のフィラデルフィア万国博に美濃紙を出品しました。
同じ頃、長瀬(現美濃市長瀬)の紙商十代目 武井助右衛門が紙の海外取引を始め、美濃紙はいよいよ世界へ送り出されることとなり、輸出先(国)で大好評を得ました。先人たちの技法が今もなお受け継がれ、薄くて、強くて、むらのない美しい美濃紙が生産され私たちの暮らしの中で使われています。
日本の文化は和紙を使って記録され、そして後世の人たちに伝えられてきました。美濃紙は今もいろいろなところで必要とされ、なくてはならないものです。
美濃手漉き和紙は全て手作業で作られます。最近になって少し機械の力を借りるようになりましたが、基本的には昔ながらの伝統手法で製作します。
美濃和紙は変色しにくく長持ちするということで、和紙を使わなければできない仕事がまだまだたくさん日本に残っています。
延長5年(927年)には、美濃国にも官営の製紙所(紙屋院の支所)ができ、美濃紙はいっそう評判を得るようになりました。
慶長5年(1600年)、徳川家康は関ヶ原の決戦に臨み、武儀郡御手洗村(現美濃市御手洗)の彦左衛門らに軍勢指揮のための采配の紙を申しつけたと伝えられ、合戦は東軍勝利に終わり、この吉例として以後彦左衛門らは「御紙漉屋」と名乗ることを許されたといわれています。
図5:外皮を削る図
紙の需要を急激に拡大させたのは、仏教であり、経文や経典の出現によって紙の消費量は膨大となり、紙の生産地も数を増していきました。
美濃の国では、紙の原料となる楮の質がとても良く沢山採れました。見た目にとても美しく丈夫な美濃和紙は日本だけでなく、当時の中国にまでその素晴らしさが伝わっていきました。
室町時代には、市内の大矢田に紙の市場が開かれ、岐阜県内だけでなく全国から紙を買いに来る人が集まりました。
図11:打った楮を馬鍬で攪拌する図
「美濃紙づくり」十五絵図
出展:岐阜県産業技術センター(美濃紙研究部)
参考文献:日本文化いろは事典
平安時代に入ると、紙の製造はますます盛んになり、美濃国から京の紙屋院に大量の紙が届けられ、製紙の原料となりました。
図10:楮(こうぞ)を打つ図
図2:楮(こうぞ)を蒸す図
図1:楮(こうぞ)を刈る図
武儀郡御手洗村紙張りの図
図3:楮(こうぞ)皮を剥分図
飛鳥時代は仏教が盛んで写経(経文を書写すること)に使用するための写経用紙が各地から都に集められましたが、品質の良さをかわれて一番多く納めたのが美濃国でした。
しかし、最近になって和紙の丈夫さ美しさが日本だけでなく外国からも見直されるようになりました。和紙は1000年以上前に作られたものでも、そのまま現在まで残っています。
図4:楮(こうぞ)皮を浸す図
和紙の作り方は、この西濃地方からしだいに中濃地方へと伝わり、美濃地方(美濃市)にも広まったといわれています。
図7:内皮を渓流に漂白する図
美濃の国の国府があったところは、現在の不破郡垂井町のあたりだと言われていますが、そこで作られた紙が最も古い美濃紙といわれていて、今も奈良県の正倉院に大切に保存されています。
さらに美濃紙は発展していき、一番盛んに紙が漉かれていた頃は美濃市周辺の村々でも約5,000戸の紙すきの家がありました。
現在では30戸弱が残っているだけです。
図6:内皮を沸騰
美濃手漉き和紙の歴史は古く、今から約1300年前まで遡ります。紙漉きの生命線である水の恵みは長良川からなり、その川山地水明な自然のなかで粛々と育まれてきた美濃和紙。
美濃・筑前・豊前の紙は、現存する日本最古の紙である大宝律令(701年)のもとに作成された戸籍用紙(名前・性別・年齢などを記載する用紙)に採用され、現在も奈良県の正倉院に保管されています。